ポストに届いた言の葉 [言葉の力]
身近なエッセイ2編 [言葉の力]
ひとりいぐも [言葉の力]
63才で芥川賞を受賞されたおらおらで
今日の天声人語 [言葉の力]
お昼がすんで廊下で日向ぼこをしながら新聞を広げました。
いつも楽しみに読んでいる「天声人語」今日はとても楽しい記事でした。
書き留めたいと思いブログに掲載しました。
ふと気がつくと「早春賦」を口ずさんでいる。この時期そんな人も居られようか。
♪春は名のみの風の寒さや・・・・・。 女性コーラスが一番ふさわしく思われるが
一人低唱するのにもいい。 寒さの中に淡い淡い春を感じるのは、北風の中で
光のまぶしさに気づくときだ。
<梅二月 光は風とともにあり>西島麦南
光はいつも気温に先駆けて次の季節の到来を告げる。日脚も伸びて東京なら
元日よりもう30分以上日没が遅い。2月のことを「光の春」とはよく言ったものだ。
その言葉を気象随筆は旧ソ連の論文で知ったと言う。モスクワの予報官から
贈られた本には,荒涼とした冬からきざし始める「光の春」が美しく語られていた。
冬が暗くて長いほど光に春と感じるのだろうと倉島さんは言っている。
昨日は立春、春が立ち返る日だった。いつもながら名のみの節目だが、それでも
駅まで歩く道で、陽だまりでかたまって咲く空色の小花を見た。パチリと開いた
早春の花はオオイヌフグリだ。犬のふぐり、すなわち「犬の股間の袋」という、
いささか 不憫な名をつけられて、花の精はお怒りか。この花は光の春にふさわしく
陽光の中で開き日が陰るとつぼんでしまう。
早春府に戻ればその3番 ♪春と聞かねば知らでありしを 聞けばせかるる胸の
思いを・・・・・・・・は、名ばかりの立春への恨み節にも思われる。
春ほど待たれる季節はなく、春ほど待たされる季節もない。
遠い兆しに五感を澄ましてみる。
朝起きて軽い朝食を済ませると毎日 それほど広くもない庭に出て、植木鉢や
木の根元に新芽が顔を出しているかなと一つ一つ見るのがこのごろの楽しみです。
春の椿が固いつぼみをつけているのを発見すると、嬉しいし、チューリップの芽が
朝の光の中で並んで出ていると、とても嬉しくなります。
自分もこの中の一個と同じなんだなって小さな感動を覚えたりしています。
はがき絵を載せました。我流なので少しも上達しません^^
折々のことば [言葉の力]
朝日新聞一面の片隅にスペースを持ったこの欄、「折々の花」のころから
時に触れ、拝読するようになっていて、今は「折々のことば」というテーマで
掲載されています。これは27日に掲載されていた№293の記事です。
私には難しい文面も多々ありますが、心に残ることもあり、今回もその一文で
書いておきたいと思いました。以下 その記事です。
何でもないことを悲しく言うのはなんでもないけど
悲しいことをなんでもないようにいうのは苦しい 小野省子
おのが悲しみについて書こうとすると、つい自らを憐れんで、
言葉にふこらし粉をまぶしてしまう。あるがままに書くということは
それほどに難しい。自分のことだからこそきちんと距離をとらないと
いけないのだが、自らを隔てるのは、言ってみればかさぶたを剥がす
ようなもの。ちりちり痛む。
詩集 「牛丼屋夜間アルバイト」から 「折々のことば 」筆者鷲田清一氏
こんな記事から自分の気持ちを客観的に見つめることができ、心が鎮まることが
あるものですね。
もう一つ この日の天声人語にほっこりする記事が載っていました。やはり
言葉にかかわることですが、抜粋して書いてみます。
「暑くもなし 寒くもないから ちょうどいい気温だから 春かなぁ」
中三の女の子が寄せた認知症の祖母の言葉だといいます。本当は
秋なのだが、祖母はわからない。でも肌で季節を感じている祖母は素敵だと
彼女は言う。人の存在の深みから届いたような言葉と響きあうその感性も
素敵である。
ほかにも 「花は咲くときには頑張らない ゆるめるだけ」(中3)
「お前 一年前の悩み言える?」(中2)は 塾の先生より
人は成長する今の悩みは些細なことだと・・・。
即効薬のように力をくれる言葉がある。しみた雨が泉となって
湧くように時間をかけて心に届く言葉もある。どこか人との出会いに似ている。
言葉を友人に持ちたい。 以上 天声人語より
考えてみれば私も些細な言葉にずいぶん救われてきたように思います。
まさに「言葉という友人」言い得て妙という気がしています。
昨年の晩秋 庭に咲いた見上げるようなコウテイダリアです。
折々の言葉 [言葉の力]
(朝日新聞)折々のことば№189より
遠慮の固まり 言い習わし
みなで食卓を囲んでいるとき、大皿に盛られた料理の最後の一切れに、
ためらいもなく箸を向ける人は顰蹙(ひんしゅく)を買う。誰もが本当は
食べたくて仕方がないのだが、それでも他者への配慮を優先する。この
思いやりがないとみなの食事がまずくなるから。誰も手を出せないこの
最後の一切れが「遠慮の固まり」。笑顔で「どうぞ」と言われて手を伸ばす
時の小さな幸福。
この記事を見て、幼いころの食卓を思い出し、ふふっと笑ってしまった。
私も同じ思いをしたことがあったからだ。
最後の一切れに手を出そうとして母に注意をされてしまった。
この記事を見て心当たりのある人は、そこそこの年配の人ばかりかな
と思うのは私だけ?
今年は玄関先の金木犀がいっぱいの花をつけ、雨の日はふくよかな香りを
楽しませてくれています。
折々のことば(朝日新聞より) [言葉の力]
朝日新聞の一面「折々の~」、私の好きな欄です。
10月4日の記事はこんな言葉で始まっていました。
いい顔とは、生にはりついている死とのつきあい方が素直にすけてみえる顔のことです。
森崎和江
人は命を差配できると思い込むようになって、逆に、穏やかな顔で死ぬことも容易でなくなった。
死は一個の命の消失に尽きるものではない。土が生き物の死体を腐らせることで植物を育むように、
人の死も「大きな自然の摂理にくるまれたもの」としてあるはず。その死が「命の素顔」から遠ざかる
ばかりだと、作家は憂う。「大人の童話・死の話」から
なんとなくまた思い出したい記事だったのでブログに書いてみました。
悩みは悩みのままに [言葉の力]
小さな本の大きなプレゼント [言葉の力]
毎月届く小さな冊子PHP。今月の裏表紙に心鎮まる文書が載せられていました。
言葉の一つ一つを自分に言い聞かせながらブログに書いてみました。
意味
この世の中に起きること、人生でおきることはみんな意味があるというけれど、どうしてもその意味を見出せないときがある。
なぜ こんなつらい思いをしなければならないのか。いくら考えても納得のいく答えは得られない。
ただひとついえるのは自分が生きてここにいるのは、選ばれてこの世に生を享け生かされているということ。
だから、たとえ絶望の淵に沈んでも、命ある限り人は生き続けなければならないのである。
事態がすぐに変わることは無いだろう。しかし人間には、どれほど厳しい試練でも、それを乗り越え、未来を切り開いて行く
力がある。過去幾多の先人が、数々の惨禍から立ち上がり、復興を成し遂げたように。
生きていることがいかに尊く、幸運かを改めて心に刻み、自分に出来ることに精一杯、取り組んでいきたい。そうすれば
くじけず頑張ってきて良かったと心から思える日が、きっと来るはずである。
その時はじめて、自らの人生において今の苦境に出会った意味がわかるのかも知れない
小さな文章もであったときによってひと時でも大きな力を与えてくれるものですね 。
友人の手になるパソコン水彩画(紅白梅)